遺留分減殺請求について
- Vol.65
- 2014年10月号
- 目次
- 「遺留分減殺請求について」 「コラム~弁護士と外交官と私」
「遺留分減殺請求」~
最近、遺言書を作成する人が増えてきています。自らの意思をきちんと形に残すということはとてもよいことだと思います。 他方、遺留分減殺請求(いりゅうぶんげんさいせいきゅう)といって、遺言書を作成したとしても遺言書の内容通りにならないケースもあります。遺留分とは?
遺留分とは故人の兄弟姉妹以外の相続人に対して認められる最低限の相続財産の割合です。例えば、兄弟2人の場合、父親がお亡くなりになった場合には、兄弟が本来であれば2分の1ずつ相続することとなります。(母親が既に故人となっている場合) そして、父親が全財産を長男に渡すという遺言を作成していた場合であったとしても、原則として2分の1×2分の1、つまり4分の1は遺留分として弟が遺産をもらうことができるのです。(遺留分についての細かいルールなどは当事務所の相続HPをご覧ください。
■相続HP http://www.souzoku-yotsubasougou.com/
■遺留分についての解説ページ http://www.souzoku-yotsubasougou.com/120/遺留分減殺請求の期間制限に注意!
遺留分を請求することを遺留分減殺請求と言います。遺留分減殺請求は、原則として故人がお亡くなりになってから1年以内に通知を届ける必要があると考えておいた方が無難です。(正確には、相続の開始及び減殺すべき贈与又は遺贈があったことを知ったときから1年間です。また、相続開始から10年以内という条件もあります。)実際には、1年以上経過していても問題がないケースもたくさんありますので、個別の案件については弁護士などの法律の専門家にご相談ください。
遺留分とは故人の兄弟姉妹以外の相続人に対して認められる最低限の相続財産の割合です。例えば、兄弟2人の場合、父親がお亡くなりになった場合には、兄弟が本来であれば2分の1ずつ相続することとなります。(母親が既に故人となっている場合) そして、父親が全財産を長男に渡すという遺言を作成していた場合であったとしても、原則として2分の1×2分の1、つまり4分の1は遺留分として弟が遺産をもらうことができるのです。(遺留分についての細かいルールなどは当事務所の相続HPをご覧ください。
■相続HP http://www.souzoku-yotsubasougou.com/
■遺留分についての解説ページ http://www.souzoku-yotsubasougou.com/120/遺留分減殺請求の期間制限に注意!
遺留分を請求することを遺留分減殺請求と言います。遺留分減殺請求は、原則として故人がお亡くなりになってから1年以内に通知を届ける必要があると考えておいた方が無難です。(正確には、相続の開始及び減殺すべき贈与又は遺贈があったことを知ったときから1年間です。また、相続開始から10年以内という条件もあります。)実際には、1年以上経過していても問題がないケースもたくさんありますので、個別の案件については弁護士などの法律の専門家にご相談ください。
遺留分をめぐる紛争は長期化し、かつ、複雑な紛争となることが多い…。
遺留分をめぐる紛争は、私の弁護士の経験からすると長期化することが多いです。原因は色々あると思いますが、計算方法が複雑であること、過去の故人の財産状況の推移なども結論に影響してくること、遺産を多く遺言でもらった相続人と少ない遺産しかもらえなかった相続人との間で感情的な対立が発生してしまうことなどがあげられます。
遺留分を考慮した遺言書の作成 遺留分をめぐる紛争はできれば避けたいものです。遺言書を作成する場合には遺留分に配慮した遺言書を作成しておいた方がよいでしょう。
(文責 大澤一郎)
▲[相続] 関連動画をご覧ください
【コラム】 弁護士と外交官と私
よつば総合法律事務所の大澤一郎です。最近、本棚を整理していたら小学校の時の卒業文集が出てきました。 将来の夢のところを見てみると、な、なんと「外交官」と記載があります。すごい子供です・・・。 (小学校の卒業文集の写真です)
思い出してみると、父の仕事の関係で、小学校のころ、サウジアラビアのジッダという町に家族で私たちは住んでました。1980年代の話です。当時、私の家の近くに、父親が外交官の同級生が住んでいて、それで、外交官という職業を知ったような記憶があります。しかも、その同級生の家には、私の記憶が正しければ、ファミリーコンピューター(ファミコン)が最先端の遊び道具としておいてあったはずです。「ベースボール」「クルクルランド」「エキサイトバイク」「サッカー」などのゲームがあったはすです、多分ですが。 うちにはファミコンは当時なかったので「外交官の親の家はファミコンがあるんだ」→「外交官はすごいんだ」→「ぼくも外交官になるぞ」という思考回路だったのかもしれません。
思い出してみると、父の仕事の関係で、小学校のころ、サウジアラビアのジッダという町に家族で私たちは住んでました。1980年代の話です。当時、私の家の近くに、父親が外交官の同級生が住んでいて、それで、外交官という職業を知ったような記憶があります。しかも、その同級生の家には、私の記憶が正しければ、ファミリーコンピューター(ファミコン)が最先端の遊び道具としておいてあったはずです。「ベースボール」「クルクルランド」「エキサイトバイク」「サッカー」などのゲームがあったはすです、多分ですが。 うちにはファミコンは当時なかったので「外交官の親の家はファミコンがあるんだ」→「外交官はすごいんだ」→「ぼくも外交官になるぞ」という思考回路だったのかもしれません。
そして、大学に入り、外交官を目指していたはずでしたが、弁護士に方向転換しました。なぜ外交官という選択肢なくなったのか、今となってははっきりとは思い出せません。当時、大学では、官僚か法曹(裁判官・弁護士・検察官)を志望する人が多かったのです。1990年代の話です。
その後、大学2年生の夏に、「弁護士になろう」と思って、資格試験予備校のLECに通うようになりました。 その後、何度か司法試験を受け、21世紀になり、弁護士になって現在12年目になりました。 色々考えてみると、「人生の重大な決断を決めるできごとってささいなことなのかも」と最近思います。
(文責大澤一郎)